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龍興寺の歴史

龍興寺

-はじめに-

のどかな田園を渡る風が、野の仏をやさしくつつみ、木立をぬけていきます。
龍興寺は臨済宗鎌倉円覚寺派の寺で大光山と号し、ご本尊に釈迦如来を奉安しております。
延宝6年(1678)第19世大渓和尚が書いた文書によれば大同年中(806~810)初代天祐和尚によって開かれました。
第3代曇芳和尚(1437没)は荒廃していた龍興寺を立て直し後世に名を残しました。大本山円覚寺第58世歴代管長・お隣の建長寺第59世歴代管長も務めている祖師でもあります。
現在の横田南嶺管長は第218世となります。
龍興寺の境内は古くから足利氏との関わりが深く、境内には足利持氏公・春王丸・安王丸の供養塔(県指定史跡)があります。
足利家から寄進されたお膳と古河公方足利政氏 、成氏からの寺領安堵状(市指定有形文化財)が残されています。


足利家家系図

-龍興寺の歴史-

龍興寺

本堂正面の家紋は足利家、室町時代の足利家のご縁と恩恵を授かっております。
室町幕府を開いた足利尊氏は、関東を押さえるために次男の基氏を鎌倉公方として置きました。
その後その直系となる第4代足利持氏の代になると幕府に対抗する勢力を持ち、関東菅領上杉憲実とも敵対するようになったことから、第6代将軍足利義紀は持氏討伐を決しました。これが世に言う永享の乱です。永享11(1493)持氏を鎌倉永安寺にて滅ぼしました。
また、 遺児春王丸と安王丸も翌年の結城合戦にて捕えられ京に護送される道中で命を落としました。
龍興寺中興の祖となる第3世曇芳和尚は持氏の伯父であり、信濃国に逃れていた持氏三男永寿王(後の古河公方足利成氏)は境内に高さ約90cmの宝篋印塔三基建立し、供養冥福を祈ったとされます。これら供養塔は室町時代中期頃の作として重要であり、埼玉県指定史跡となります。
また、鎌倉時代後期の文永8年(1271)建立となる青石塔婆も境内に存在し、寺院の歴史の古さが垣間見られます。

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